久しぶりに書く!何日か濃かったなー!

 

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この前書いたひやりとした感覚、それを久しぶりに感じる出来事があった。感動した。また会えた。冷たくて冷静な文章だった。分かったうえで冷たいので、優しくて温かいなって思った。その文章見せてくれた人、見てるとときどき感動してしまう。なんでやろ。うおーーーーってなる。たまにそういう人がいる。生きてる瞬間を見るだけで感動してしまう人。その多くは女の人の時が多い。自分は男でしょうもないなーって思うことが多いからかもしれない。生きてるだけで凄い、となる。

 

今からたぶん絵を見に行く。体調が復活してから、お腹を空かせた人が慌ててものを食べるようにすごい勢いで取り返していくような感じがする。感動したい。映画見たい本読みたい人に会いたい歌詞のない曲聴きたい歌いたい歌いたい歌いたいうわー

 

最近短歌や俳句を教えてもらって見るようになって刺さる言葉を知りたいなってなる、短くても意味が足りなくても刺さるもの、シチュエーション、同じ心でなくてもわかりあえる瞬間、言葉は凄い、そしてしょうもない。(そんなテーマで花瓶といううたを作った)

 

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僕は周りにとても愛され許されている今、だから自分を差し出してすんなりと大きくたくさんのものを返したいと願います

 

 

 

 

 

 

 

 

ひやりと冴えた感覚がしん と続いて、夜が来るまでに何を準備していたらいいかわかるような時期があった。

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上京した理由になったバンドを、もうやめようと決めて生まれた人生の溝みたいなその約2ヶ月は、それまでの人生で(他人からも価値があったかはともかく)いくらかの自分を削って賭けたから、やっとその量の時間をもらえた気がした。そう簡単にまた帰れると思わないけれど、未だに、本に入り込んだ時/映画を見た時/集中した時/あの時期と近い夜を通った時、またあそこに行くにはどうしたらいいのかな、とよぎる。

当時でさえ終わりかけは、かろうじて毎回必要事項を当ててギリギリ間に合う、みたいな日ばかりだったけど。

 

集めたピースで完成した絵をいつまでも飾らずに崩す。そのほうがいいといつも思う。自分の性格じゃそれしか選択肢ないと思ってしまう。これがパズルならしょうがないからって。寂しがりながらいつも。

 

今またピースを集めて直している最中だとしたら前回より数の多いパズルだろうな、と思って、この文章を打ってる。

 

 

 

 

 

 

ずっと歌のことしかしてないから、ライブすることと普段生きてることとが前以上に直結してきた。

 

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昔はやっぱなんかある程度、よし!やるぞ!って切り替えがないとライブ怖かったんだけど今は あー…今日は何話そかな…みたいなまんまでステージ上がる緩やかさができた。多分いっぺん自分がクソだ(最近口悪いね)というとこまで落ちたからもう背伸びしなくなったからなんかな。自分に期待しすぎないかんじ。

 

そこそこでも伝えられたら充分、なんとなく聴いてもらえてるだけで、そこに居てくれてるだけで充分。

自分と同じ大きさの全力で届くのかどうかとか、好きになってもらえるかとか、誰かの役に立てるのかとか。全部わかるけどもう、とりあえず自分を渡すための通路があるだけで充分恵まれてたわ、ってやっとなった。

 

 

期待しすぎてたのはわかって欲しがりだったから。

でもその頃の自分を思い出したら思い出したで、ああ 頑張ってたんだなあ とも思う。

 

 

 

 

ちょっとずつ伝えていくしかないのかな、と思った。

 

昨日はライブでした。病み上がり。終わった後クソほどしんどくなってフラフラしてしまった。でも歌はちゃんと歌ったよ。ライブってですね、「返し」という歌ってる本人に音を返すためのスピーカーがありまして、まあ自分の声・音を聴く用やね。それも本番前のリハーサルでやりながらライブハウスの人に調整してもらうんだけど、自分を自分で見る・聴くっていう作業は神経質になりすぎて怖い。久しぶりにいろいろ思い出した。

 

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バンドしてた頃、気にし過ぎて全く音程が取れなくなったこともあったし、不安の中でステージの真ん中に立つことがよくあった。油絵を近くで見るように、何描いてあんのかわからなくなるほどの距離で見るのはなんだってしんどい。そういう気にし過ぎるとこがあって、写真撮られることや鏡見るのが嫌いだった。細部を見て、もっと言うと自分の粗を探して凹むから。

 

日によっての自分が少しずつ違うこと、そしてともすると今日は「良くない方の日」であること。それに気づくのは悲しかった。

 

でも、そもそも絵はある一定の距離から見るためのものであって、大きく作られているわけであって、それは僕の好きな「抽象的」なわけであって、

僕自身他人の目にどう映っていたいか・どんな人でありたいかを大きくもっておけば、緩やかな自分のままでいられるかなとやっと少し思えるようになってきた。細かく見てここがダメ、と細部を気にして全体を殺すのは勿体無いなって。

 

 

細かいとこまで完璧に作り、全て伝え切りたいという思いがあるから 誤解に凹むこともあるけど、

改めて、今はゆっくり大きく、ちょっとずつちょっとずつ伝えていこうと思った。

 

 

 

 

 

 

指輪をなくした。小指。この前は中指。1つはサイズが大きすぎて抜けた。1つはリングそのものが小さすぎてどっかやった。

 

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なくなったものに対して冷たい、雑、と言われたことがある。そうなんだ、僕冷たいんだ雑なんだあちゃーと思っていたけれど、僕の一番のあたたかさを込めた時の対応や思いがやっぱりいつもと変わらなくてどうでもいいから切り捨ててるわけではないんだなと思った。

 

また会える時が来たらちゃんと会えると勝手に思ってるみたい。当たり前みたいに。なくしたものだって帰ってくるって。手は離すけど大きく傍にいる感じ。ギターとかに対してもそう思う。自分の手から離れてもまた誰かが使ってずっとそのギターは何処かに在るんだろうなって。僕自身はそのギター、好きなまんまだし。

 

 

この前は 今のあなたを嫌いになりそう、と人から言われた。だから、じゃあ会うのをやめましょうと答えた。それはどうでもいいわけじゃなくて、僕には僕なりの今の変化があって、それを受けたあなたの中での今の変化があって、今の問題をお互い納得しきるまで解けたその先でまた丸くなって会えたらいいね、と思った。他人事みたいな言い方だけど。

 

 

まあ結局、自分のことは自分じゃよくわからない。でもだから今必要な答えを持ってる人と出会い話し別れてまたいつか ああ久しぶり、って会うのかなあって 最近なんとなく思う。

映画

 

 

これからおこる楽しいことは全て一位以下かもしれないと思えば、少しさみしくて身軽になる。天気のいい日の肌寒さ くらいの気持ち。

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その軽さでうっかり超えてしまうことがあるかもしれない。すっかり通り過ぎるかもしれない。油断すれば終わる春で、夏は悲しいから始まりも終わりも気付くけど、春は悲しくもならないから他スリーシーズンの中で思い浮かべた時にやっと悲しい。

 

多分これらの思い出たちはどれが一位とかじゃなくて、ただひとつひとつで比べようのないものなんだろうけれど、その時その時の季節温度思い人肌体調感情睡眠量空腹とかに左右されてまた比べちゃうんだろな、と思う。でもしいて言えばどの季節でも何を食べても誰といても浮かべるものがあれば、それはそういうことなんだろなとも思う。

 

思いは思い出すほど擦切れちゃうんだろか。あんまり思い出さなかった記憶の方が脳の中では綺麗に収まってるんだろうか。それはそれで使わなかった色鉛筆みたい、

 

 

 

まあ大丈夫か〜〜〜〜〜〜〜

 

 

また会えるかな

 

でたらめ

 

お腹一杯になるように作ってくれること。家のない生活をするまで分からなかった。

必ず栄養があること。それは今の時代、全然当たり前じゃない。

 

 

受け取りきれず、形にならず、手元からこぼれた優しさがいくつあっただろう。僕は基本そういうものに疎い。

 

占いによると僕は分かり合える人が極端に少なく、自分では確信を付いている気がしていても世間に認められることはそうそう無いらしい。残念。

 

 

 

 

何に対してかまだはっきりわからなくて言えないけど、

 

ありがとう。いつも .