泣いてくれた

 


嬉しい、と言ったあとに最後まで受けとるのが難しい。一人で閉じこもって頑張るほうが得意。他人に意味の伝わる上手な文章って、どんなのなんだろう。わからずに僕は書き始めている。


「何が正解/不正解」かを決めておいたほうが判断が楽だし、頑張りようがあるからそうした。基準を決めて はみ出したら あー違うんだ と思って僕は僕を捨てた。でも人に拾われていた。キープアダイアリーのお客さんは見つけてくれていた。まるで家族がとっておいてくれてた大切なものみたい。捨てたはずのものを「いつか使うだろうと思って」 って。言葉にできずわかりやすく現れることのなかった部分は、どこかへ行ってしまわずにめぐりめぐってタイミングで返ってきた。


分かり終えたことを書いてどうなる?、と今でも反射で考える。これを打ちながらも(自分の安心を確かめる文章を書いて、それでどうなる?)って。不安から始めたことは不安じゃなくなればきっと終わってしまうだろう。でも今は安心があれば昨日からの引き継ぎができるじゃないかと思う。”今日でおわり” がなくなってやっと挑戦できたものもあった気がする。


気づいたらこの文章は あの人にも、あの人にも、あの人にも似ている。そして且つ、おそらくどの人にも似きりはしなかった。えらぶ言語や言葉に移し換える位置が違っていても、思えば最初から奥底のわだかまりは大枠似たものだった。ひとマスだけズレて違っていただけだった。それはおそらく互いに ”わかってほしいけどわかってもらいようがないと思っていた” こと。僕を通り過ぎていった人たちは、それがあった人と、なかった人。


-

深くてくらい海の底、息を潜めて歩いていたら、遠くの方から声がした。鯨の電波とおんなじ。何かを響かせた音。目に見えなくても聞こえてる ”音” とは、鼓膜を揺らした振動のこと。目に見えないから目をつむる。 いまは暖かい水の中にいるということだけがわかる。

-


僕は本当になんにも変われていない。ずうっとずうっとおなじことの繰り返し。ただそれを前よりすこし増えただけの言葉でやっている。もう聞いたよなって話し終えてから思う。進化がない。それでも話してみてもいいのかな。聞いてもらえたりするらしいな。おそるおそる出てくる。僕はおそらく下手なのだけど、拾ってくれた人がいると今さら気付いて手紙が書きたくなりました。

 

 

p.s

自分の綺麗さを残そうとして、綺麗さが相手と違ったとき、もう話しようがなくなるのかもしれないね。